聞き手の存在を必ずしも要求しない「~やら」「~だろうか」で終わるタイプの疑問文について考察した。特に「~やら」は,聞き手の存在を含意する丁寧表現を伴った場合においても情報を要求する疑問文とはならずに自分の疑いを表現する文となる。このことを Miyagawa (2012)やSpeas & Tenny (2003)の分析を採用して説明した。特に,「やら」疑問文は情報を求める疑問文になれないことから「やら」には話し手と一致しなければならない視点演算子があると論じ,同様の例として感嘆文や「ものか」修辞疑問文があるとした